沿革 HISTORY
1949 (昭和24)年
- 2月16日
- 全国に設立されていた実業団野球地方連盟を統合し、「日本社会人野球 協会」として発足。初代会長に宮原清氏が就任。同時にNBC(米国野球 協会)に加盟。
1950 (昭和25)年
- 12月17日
- NBCからプロとノンプロを明確にする意向が示され、資格規定が 制定された。プロ野球退団者は、退団から1年経過後、資格審査委員会の 審査を経て登録が認められた。
1951 (昭和26)年
- 10月21日
- 日本産業対抗野球大会がスタート。 化学工業代表の鐘淵化学が初代王者となった。
1952 (昭和27)年
- 5月24日
- 日本とフィリピンとの険悪な関係を打開するため、フィリピン野球協会パーソン会長の申し入れを受け交換試合が実現、両国の友好関係促進に多大な貢献。
1953 (昭和28)年
- 12月18日
- 5月にアジア野球連盟が発足、第1回アジア野球大会がフィリピンで開催。 日本は都市対抗覇者の八幡製鉄に大会優秀選手9名が補強された。 結果はフィリピンに敗れ準優勝。
1954 (昭和29)年
- 9月1日
- 国際試合を開催するため日本学生野球協会と「日本アマチュア野球協会」を構成する。
- 9月23日
- 第1回世界野球大会がミルウォーキーで開催。 日本は都市対抗覇者の全鐘紡に大会優秀選手8名が補強された。5位。
1957 (昭和33)年
- 7月28日
- 都市対抗野球大会で日鉄二瀬の村上峻介投手が大会史上初となる完全試合を達成。
- 9月18日
- 第3回世界野球大会で日本チームが初優勝。
1961 (昭和36)年
- 4月4日
- 日本プロ野球機構と毎年結んでいた「選手の転出、加入に関する協約」の締結がプロ側より拒否され、無協約状態となった。またこの後に中日が 日本生命の選手との契約を強行。
- 5月13日
- 中日が社会人選手との契約を強行したことに対する対抗措置として、 プロ球界に対する5項目を決議した。
1964 (昭和39)年
- 10月11日
- 東京五輪で野球が公開競技で行われ、都市対抗に優勝した日本通運を主体としたチームがアメリカ代表チームと対戦した。 日本生命の選手との契約を強行。
1966 (昭和41)年
- 9月23日
- 事務局を有楽町から千代田区一ツ橋に完成した毎日新聞社新社屋 (パレスサイドビル)へ移転。
- 12月2日
- 社会人野球ベストナイン賞が制定され、第2回の表彰式が行われた。
1967 (昭和42)年
- 3月25日
- 日本アマチュア野球協会を解消し、日本学生野球協会と日本アマチュア野球国際委員会を発足させた。
1969 (昭和44)年
- 7月22日
- プロ側からの要請を受けて、「プロ野球対策委員会」を設置し、協議を再開した。
1970 (昭和45)年
- 3月2日~3月10日
- 審判技術の交流を目的に台湾、沖縄に審判団を派遣した。
- 7月23日
- プロ野球対策委員会の答申を受けてプロとの交渉期間に関する内規を制定した。
1972 (昭和47)年
- 1月25日
- 4項目(交渉期間の明確化、ドラフト外獲得の廃止、指名除外期間の制定、プロ経験者による技術指導の促進)からなるプロ野球との問題に関する声明文を発表した。
1973 (昭和48)年
- 1月24日
- プロ野球退団者による技術指導を条件付きで認める決議を行った。
1974 (昭和49)年
- 7月24日
- 第45回都市対抗野球大会は白老町・大昭和製紙北海道が優勝、黒獅子旗は初めて北海道へ渡った。
- 10月28日
- 日本産業対抗野球大会を発展的に解消、単独チーム日本一を競う大会として「社会人野球日本選手権大会」が甲子園球場でスタート、三協精機が初代王者となった。
1975 (昭和50)年
- 7月24日
- 第46回都市対抗野球大会は開会式に 2万人の大観衆を集めた。開会式の後、史上初めてホームラン競争が行われた。
1976 (昭和51)年
- 8月23日
- 全日本クラブ対抗野球大会がスタート、第1回大会は神宮球場で行われた。 全浦和野球団が初代王者となった。
- 9月
- 国際野球連盟(IBAF)に加盟した。
1978 (昭和53)年
- 7月28日
- 都市対抗野球大会の予選地区の変更が行われ、19地区に分かれていたが、近年のチーム分布を加味し、16地区となった。
- 8月2日
- 全日本クラブ対抗野球大会で全浦和野球団が3連覇を達成した。
1979 (昭和54)年
- 7月28日
- 第50回都市対抗野球大会から金属製バットの使用を解禁とした。
1980 (昭和55)年
- 5月24日
- 第7回社会人野球日本選手権大会は、世界選手権の日本開催のため、五月開催とし会場を大阪球場に移して行われた。
- 8月22日
- 世界アマチュア野球選手権大会を初めて日本で開催した。14日間で25万人 の観客を集めた。日本はキューバ、韓国に敗れ、韓国と並んで2位となった。
1981 (昭和56)年
- 11月2日
- 将来の日本代表選手を発掘、育成する目的で、第1回新人研修会が行われ、各地から有望な若手選手が集められた。
1984 (昭和59)年
- 8月
- ロサンゼルス五輪で公開競技として行われた野球競技で日本は金メダルを獲得した。
1985 (昭和60)年
- 2月2日
- 広く野球競技の振興を図る目的として名称を「日本野球連盟」に改称した。また、日本学生野球協会下に登録をしていない大学生の競技者登録を認めることとした。
- 中国棒球協会からの要請を受けて、篠原一豊理事と池田善吾氏の2名を技術指導員として中国へ派遣した。
1985 (昭和60)年
- 2月2日
- 広く野球競技の振興を図る目的として名称を「日本野球連盟」に改称した。また、日本学生野球協会下に登録をしていない大学生の競技者登録を認めることとした。
1986 (昭和61)年
- 10月13日
- スイス・ローザンヌで開催されたIOC総会において、野球が1992年夏期五輪から正式競技に加えられることが決まった。
1987 (昭和62)年
- 6月10日
- 日本体育協会に対する加盟が認められる。
- 8月21日
- 全足利クラブが第12回全日本クラブ対抗野球大会に優勝、3連覇で5回目の優勝を飾った。
1988 (昭和63)年
- 7月28日
- 都市対抗野球大会はこの年完成した東京ドーム開催となる。
- 9月19日
- ソウル五輪で公開競技として行われた野球競技において日本は銀メダルを獲得した。
1989 (平成元)年
- 社会人野球は指名打者制を採用する。
1990 (平成2)年
- 6月28日
- 文部省(現文部科学省)より財団法人日本野球連盟としての認可される。
- 6月20日
- 日本アマチュア野球国際委員会を発展的に解消、全日本アマチュア野球連盟を設立、JOCへ加盟した。また、IBAFには全日本アマチュア野球連盟が引き継ぎ加盟した。
- 10月
- 社会人野球日本選手権大会は、会場を大阪球場からグリーンスタジアム神戸へ移して行われた。
1991 (平成3)年
- 2月18
- 日本少年野球連盟(ボー イズ リー グ) 、日 本リトルリー グ野球協会、日本リトルシニア野球協会の加盟を承認。
- 11月
- 第1回全日本アマチュア王座決定戦が行われ、社会人野球日本選手権を制した日本石油が出場、大学選手権優勝の東北福祉大を破り初代アマ王座を獲得した。
1992 (平成4)年
- 2月18月
- プロ野球現役選手との合同練習や指導等に関する規制を条件付きながら緩和した。
- 8月
- バルセロナ五輪の野球競技において日本は銅メダルを獲得した。
- 12月
- 社会人野球日本選手権に優勝した住友金属が南アフリカで開催されたIBA会長杯に出場。社会人野球チームの南アフリカ遠征は初めて。
1993 (平成5)年
- 2月
- ソウルに続きバルセロナ五輪で2大会連続出場し、いずれもメダルを獲得した西正文選手(大阪ガス)を特別表彰した。
- 2月
- 甲賀総合科学専門学校(滋賀県)が専門学校野球チームとして初めて加盟登録を承認される
1996 (平成8)年
- 2月
- プロ野球チームとの試合を条件付きで認める。
1997 (平成9)年
- 11月
- 社会人野球日本選手権大会が大阪ドームで開催となる。
- 12月
- 1961年以降、禁止してきたプロ野球退団者の選手登録を条件付きで認める決議を行った。
1999 (平成11)年
- 日本野球連盟創立50周年を迎えた。
2000 (平成12)年
- 8月
- 都市対抗野球大会でドーピング検査導入。
- プロ野球との交流試合を促進する申し合わせを行った。
- 浦添市・沖縄電力は、沖縄県チームとしては28年ぶりに都市対抗野球大会に 出場した。
- 賞金等を伴うテレビ番組への参加に関する取扱要領を制定し、競技者の テレビ出演の規制を大幅に緩和した。
- 役員の70歳定年制を制定。
- NPO法人の認可を受けているクラブチーム「札幌ホーネッツ」が初めて加盟登録した。
2001 (平成13)年
- 2月
- 日本Kボール少年野球連盟(現KB野球連盟)の加盟を承認。
- 8月
- 都市対抗野球大会に「黒獅子エンブレム」を制定。 また、ユニフォームへの宣伝広告を条件付きで認めた。
2002 (平成14)年
- 2月
- プロ野球に関わる特例事項を抜本から見直し、日本野球連盟設立時より盛り込まれていたプロ野球に関わる制限事項を撤廃し、声明文を発表した。
- 2月
- 「21世紀の社会人野球のモデルチーム」を提唱し、新しい形態の社会人野球チーム作りへ向けた規制緩和に着手することを決めた。
- すべての社会人野球公式大会の名称に「JABA」を盛り込むことを決議した。
- 社会人野球は、金属製バットの使用を原則止め、木製バットとなった。
- 5月
- 広島カープ(ファーム)が初めて社会人野球公式大会へ出場した。
2003 (平成15)年
- 4月
- 社会人野球では、延長回に関わる特別規則(タイブレーク)を内規に盛り込み、各大会の定めによって1死満塁から攻撃を行うことが出来る ルールを制定した。
- 8月
- ユニフォームの左袖に各選手の所属企業ロゴの貼付を認めた。
2004 (平成16)年
- 2月
- 日本女子野球協会の加盟を承認。
2004 (平成16)年
- 3月
- クラブ選手権も木製バット使用となった。
2006 (平成18)年
- 2月
- 社会人野球制度改革に関する一次答申を受け、都市対抗とクラブ選手権の優勝チームに社会人野球日本選手権大会の出場権が与えられることに なった。
- 東・中・西日本各ブロック大会を創設、また、クラブチームによる自主運営大会を推奨する通達を発信した。
2007 (平成19)年
- 2月
- 日本選手権対象JABA大会を各地区に1大会、計9大会を制定、社会人野球日本選手権の出場権を与えた。
- 評議員並びに各委員会委員にも70歳定年制を制定。
- 全日本少年硬式野球連盟の加盟を承認。
- 4月
- 事務局を千代田区丸の内のサピアタワー(現行)に移転。
2008 (平成20)年
- 2月
- 審判講習会にアジア地区の野球発展途上国の審判員を研修生として受け入れた。
- 急増するクラブチームの振興策として、クラブリーグ構築5カ年計画を策定。
2009 (平成21)年
- 8月
- 第80回都市対抗野球大会を皇太子殿下がご観戦された。
- 11月
- 社会人野球制度改革の概要を発表。2010年度より施行。
2010 (平成22)年
- 2月
- 日本選手権対象JABA大会を11とし、全大会をリーグ戦・トーナメント方式に統一、年間成績による個人表彰を制定した。
- 日本ポニーベースボール協会の加盟を承認。
- 10月
- 社会人野球日本選手権大会の1回戦を4会場に分割して行った。
2011 (平成23)年
- 1月
- 傘下に中学硬式野球7団体による中学硬式野球協議会を設立。
- 3月
- 3月11日の東日本大震災の影響を受け、日本選手権、日本選手権対象 JABA大会を中止とする事を決定した。
- 10月22日
- 日本野球連盟の理念と活動指針を制定した。
- 10月
- 都市対抗野球大会は電力事情を鑑み、開催時期を8月から10月に変更し、会場を初めて東京から移して大阪(京セラドーム大阪)で行った。
- 10月24日
- 都市対抗野球大会でJR東日本東北(仙台市)の森内壽春投手が54年ぶり2人目の完全試合を達成。
2012 (平成24)年
- JX-ENEOS(横浜市)は、都市対抗、日本選手権を制した。史上2チーム目。
2013 (平成25)年
- 3月1日
- 内閣府より公益財団法人への移行が認可され、公益財団法人日本野球連盟 となる。
2014 (平成26)年
- JX-ENEOS(横浜市)は、第84回都市対抗野球大会で優勝。第32、33回 大会(1961、62年)以来となる51年ぶり2度目の大会2連覇を達成。
2015 (平成27)年
- 7月29日
- 天皇皇后両陛下が都市対抗野球大会決勝戦をご観戦。
2016 (平成28)年
- 日本生命(大阪市)は、都市対抗、日本選手権を制した。史上3チーム目。
- 東京ドーム、京セラドーム大阪で親子ティーボール教室を開催。
2017 (平成29)年
- 11月~12月
- 台湾で開催のアジアウインターベースボールにJABA選抜が初参加。
2019 (令和元)年
- 7月
- JABA創立70周年・第90回都市対抗野球大会の記念事業の一環として、社会人野球の歌『我街の誇り』(作詞:伊集院 静、作曲:林 哲司)を発表した。
- 12月
- アジアウインターベースボールで、JABA選抜チームが初優勝を飾った。
2022 (令和4)年
- 2月
- 事務局を東京都千代田区一ツ橋1ー1ー1 パレスサイドビル1階(現行)に移転。