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【GAME007】1994年第65回都市対抗東京二次予選第二代表決定戦/シダックス×JR東日本

TC007-1.JPG (1.23 MB) 社会人野球には、外国人選手が活躍した歴史もある。プロ野球が発足する1990年以前の台湾では、代表クラスの有力な選手が来日し、プロだけでなく社会人でもプレーしていた。また、各企業が事業所を持っていたり、関係の深い国でプレーしている選手を呼び寄せることもあった。1987年の都市対抗はヤマハが優勝し、橋戸賞には台湾人の劉秋農投手が選出された。また、1990年代前半の神戸製鋼には、オーストラリア人のブレット・シーダーブラッド投手やアンドリュー・スコット内野手が在籍。三菱自動車川崎から広島へ入団した玉木重雄投手をはじめ、多くのブラジル人選手が社会人で活躍しているのも周知の通りだ。

 1994年には、世界の頂点に君臨するキューバから選手が派遣されることになった。長引く不況で外貨を獲得する必要性が高くなったキューバと、さらなるレベルアップを見据えてキューバとの関係を深めたい日本野球連盟・山本英一郎会長代行の思惑が一致したのだ。山本がいくつかの企業チームに声をかけると、シダックスが真っ先に手を挙げる。1993年に創部したばかりのシダックスは、世界最強の助っ人を加え、都市対抗出場を狙っていた。そうして、35歳の右腕ホセ・アレマン、33歳の司令塔ホセ・デルガド、34歳の長距離砲ラサロ・フンコが加入する。

 若手ばかりのチームで、キューバ勢はコーチ役も担う。すると、春先は企業チームに大敗を続けていたチームが、都市対抗予選に向けて急速に力をつけていく。

 

ホセ・デルガドが起死回生の逆転サヨナラ3ラン本塁打を放ち、

創部2年目のシダックスは都市対抗初出場を果たす。

 

満塁弾で始まった快進撃は奇跡の一発で……

 

 東京多摩地区一次予選決勝で東芝府中に敗れたシダックスは、東京都一次予選にまわる。13チームのうち4チームが二次予選に進出できるトーナメントで、まず一回戦は全府中野球倶楽部を16対0で撃破するも、東京ガスとの二回戦では6点を奪われる。だが、8回裏にフンコの二塁打などで3点差まで詰め寄り、9回裏にも連打で1点差に。なお二死満塁でフンコが打席に立つと、カーブを強振した打球は府中市民球場のレフト場外へ消える。この逆転サヨナラ満塁本塁打から、シダックスの快進撃が始まる。

 代表決定戦は2対5で朝日生命に敗れたものの、敗者復活代表決定戦では9対7でさくら銀行を振り切り、シダックスは創部2年目ながら東京二次予選に駒を進める。今度は8チームで3つの代表枠を争うが、前年に名門の熊谷組が活動を休止したため、それをチャンスととらえた戦いは激しさを増す。実際、11年連続で本大会に出場していたプリンスホテルが敗者復活二回戦で姿を消した。

 そんな中、一回戦で鷺宮製作所を4対2と下したシダックスは、準決勝でもアレマンの好投で東京ガスを5対2と下す。いきなり第一代表決定戦まで勝ち進み、急遽、応援団も編成されたが、東芝府中に3対13と圧倒される。やはり、東京ドームへの道は甘くないのだ。

 第二代表決定戦には、JR東日本が勝ち上がってきた。一回戦でプリンスホテルに敗れたものの、敗者復活戦で朝日生命、東京ガス、NTT東京を連破しており、勢いもある相手だ。1回表にJR東日本が1点を先制すると、2回裏に追いついたシダックスは、続く3回裏には一気の集中打で4点を挙げる。

 中盤はともに攻め手を欠くと、7回表のJR東日本は今村基之の2ラン本塁打などで5対5の同点とする。試合はそのまま延長に突入。そして、JR東日本は10回表二死二、三塁から高嶋雅治が中前に弾き返して2点を奪う。大応援団は盛り上がり、4年ぶりの東京ドームが見えてきた。

 その裏のシダックスは、軟式野球部の時代からプレーしている津野裕幸(現・桜美林大監督)が中前安打を放つも、JR東日本の三番手・浜崎 淳は二死まで漕ぎ着ける。打席にはフンコ。一発が飛び出せば再び同点になる。フンコは気合い十分だったが、浜崎も負けじと果敢にインコースへ投げ込み、死球で一、二塁となる。

 ここで打順が巡ってきたデルガドは、アレマンに「俺が打ってくる」と言い残して打席に向かうと、浜崎が投じた渾身のストレートを振り抜く。その打球は、打った瞬間にそれとわかる軌道で神宮球場のレフトスタンドに突き刺さる。

 一瞬の静寂のあと、デルガドが満面の笑顔でダイヤモンドをまわり始め、両チームの選手は何が起きたのかを理解する。JR東日本の選手たちはその場に崩れ、シダックスのベンチからは真っ赤なユニフォームの選手たちが飛び出す。

 

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シダックスの選手たちが作る歓喜の輪を前に、JR東日本の小松利博監督は整列の位置に立ち尽くす。

 

 こうして、シダックスは創部2年目で都市対抗初出場を決めた。デルガドがサヨナラのホームを踏むシーンを、JR東日本の小松利博監督は整列の位置からじっと見詰めていた。後日談だが、NTT東京との第三代表決定戦にも敗れ、就任4年目も都市対抗出場を逃した小松監督は、自身の背番号を変える決断をする。

「背番号40は、4年やっても都市対抗出場0回を暗示していたように思えて……。5年目こそ東京ドームに立てるよう、翌1995年は51にしたんです」