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【GAME017】1997年第13回インターコンチネンタルカップ決勝/日本×キューバ

 アトランタ五輪の際に開かれた国際野球連盟の会議で、1997年から野球の国際大会におけるプロ選手の出場が容認された。世界の野球はアマチュアが歴史を作ってきたと自負する日本やキューバは反対したが、オリンピックの正式競技であり続けるためにはプロ選手の出場が必須と考える勢力に多数決で押し切られたのだ。

 とはいえ、日本ではニュースもならなかった。プロ選手がペナントレースを休んで国際大会に出場するなど、何の現実味もないととらえられていたからだ。ただ、日本代表のチーム編成には大きな影響が出た。バルセロナ、アトランタ両五輪には4年をかけたチーム編成で臨んだものの、4年後のシドニー五輪でのチーム編成はどうなるかわからない。そのため、1997年になっても日本代表監督は空席のままで、代表候補選手の強化合宿も行なわれなかった。

 5月下旬の第19回アジア野球選手権大会には佐竹政和監督で臨むも、社会人と大学生の急増チームは十分に機能せず、大学生で編成された韓国に決勝で苦杯を喫する。そんな状況で迎えたのが、8月1日からスペイン・バルセロナ市で開催された第13回インターコンチネンタルカップだ。アトランタ五輪で投手コーチを務めた大田垣耕造が指揮を執り、都市対抗を終えたばかりの社会人14名、大学生8名のチームで出場する。ちなみに、プロ選手を登録したのはオーストラリアだけ。しかも、アメリカのマイナー・リーグやイタリアン・リーグの経験者だ。

 大会は日本、キューバ、アメリカ、ニカラグア、オーストラリア、イタリア、フランス、スペインの8か国が総当たり。上位4チームが決勝トーナメントに進むシステムで実施される。日本は予選リーグ第1戦でアメリカに競り勝ち、実力差のある欧州勢には大勝したが、苦手のオーストラリアに逆転負けすると、ニカラグアにも不覚を取る。リーグ戦の最終戦でキューバに敗れ、4勝3敗となる。

 キューバが7戦全勝で1位となり、国際大会の連勝記録も150に。オーストラリアが5勝1敗、アメリカが4勝2敗で雨天順延となった直接対決を残しており、日本はニカラグアと並んでいた。アメリカがオーストラリアに勝てば、ともに5勝2敗で2、3位、ニカラグアに敗れている日本は5位で準決勝進出を逃すことになる。選手たちは、帰国する準備をしながらアメリカ対オースラリアの結果を待った。

 すると、オーストラリアが6対4でアメリカに勝ったという知らせが入る。これで、6勝1敗のオーストラリアが2位となり、4勝3敗で日本、アメリカ、ニカラグアが並ぶ。この3チーム間では1勝1敗で星を潰し合っており、当時の国際ルールで失点差によってニカラグアが脱落。直接対決の勝敗で日本が3位、アメリカは4位に。日本は他力ながらも準決勝に駒を進める。

 

若手が躍動してキューバの連勝を151で止める

 

 準決勝では、十分に休養した日本の打線が連戦のオーストラリア投手陣に16安打を浴びせ、10対5で予選リーグの借りを返す。キューバは7対1でアメリカを退け、大会8連覇に死角はなしというムードだ。

 

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国際大会の経験も豊富な高林孝行が、主将としてチームを牽引した。

 

 そうして、短期決戦の大会は前年のアトランタ五輪に続き、日本とキューバの顔合わせで決勝を迎える。日本の先発を任された上原浩治(大阪体育大3年=元・巨人)が1回表のキューバを無得点に抑えると、その裏にキャプテンでリードオフを担う高林孝行(日本石油)が中前安打。一死後に桑元孝雄(三菱自動車川崎=現・東京農業大コーチ)も左前に弾き返して一、三塁のチャンスを作り、四番の高橋由伸(慶応義塾大4年=元・巨人)が左中間へ先制3ラン本塁打を放つ。

 これで勢いづいた打線は、続く2回裏にも高林、西郷泰之(三菱自動車川崎)、桑元の連続タイムリ―で3点を追加。5回裏にも梶山義彦(三菱自動車川崎=現・三菱自動車岡崎監督)の一発などで2点を加え、前半で8対0と大量リードを奪う。

 

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キューバの連勝を止めて世界一になった日本代表の選手たち(左)。

練習後の記念撮影。左から日産自動車の宮田 仁、慶応義塾大4年の高橋由伸、キューバ代表のオマール・リナレス(右)。

 

 6回表一死から上原がオマール・リナレス(元・中日)にソロ本塁打を許し、さらに一、二塁と攻め立てられると、大田垣監督はすぐにアンダーハンドの宮田 仁(日産自動車)を投入。宮田は8回表にアントニオ・パチェコ(現ニューヨーク・ヤンキース傘下コーチ)にソロ弾を浴びたものの、その裏に高橋と梶山の適時打で3点を加え、11対2で完勝する。日本はキューバの国際大会連勝記録を151でストップさせ、1973年の第1回大会以来2回目の優勝を果たした。