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【GAME018】1998年第13回アジア競技大会決勝/韓国×日本

 1997年から国際大会へプロ選手の出場が容認され、世界の野球をリードする国や地域の動向が注目される中、1998年のシーズンは日本にとってターニング・ポイントとなる。プロ選手を国際大会に派遣するかどうか、全日本アマチュア野球連盟(現・全日本野球協会)とプロ野球機構(NPB)の間で協議が進められていたものの、プロ側はペナントレース中の選手派遣や、ペナントレース自体の中断は不可能という見解。しかも、大会名から『アマチュア』の文字がなくなった第33回世界選手権大会は都市対抗と日程が重なったため、大学生を中心に編成したチームで出場して5位に甘んじる。

 タイの首都バンコクが舞台となる第13回アジア競技大会は12月の開催だったため、韓国と台湾はシーズンオフのプロ選手を招集。韓国は、この年にロサンゼルス・ドジャースで15勝を挙げた朴贊浩、ニューヨーク・メッツ傘下の有望株と評される右腕・徐在應を筆頭に12名、チャイニーズ・タイペイもバルセロナ五輪の銀メダリスト・郭李建夫(元・阪神)や2000年に西武へ入団する許銘傑ら11名のプロ選手を登録する。一方で、日本はプロ側と協議を続けるも、社会人と大学生によるチームで出場することに。ただ、11月20日のドラフト会議で指名された4名の社会人選手の出場は認められた。

 大会は日本、韓国、チャイニーズ・タイペイの3チームが順位を決めるA組、中国、フィリピン、タイの中から準決勝へ1チームが進むB組に分かれ、それぞれ2回総当たりのリーグ戦を実施する。

 チャイニーズ・タイペイとのリーグ戦第1戦には、この年の日本選手権で優勝し、日本ハムからドラフト3位で指名された立石尚行(NTT関東)が先発。5回を1失点の好投でゲームメイクし、打線も効果的な援護で4対1と幸先よく勝利を挙げる。韓国との第2戦は、本格派右腕の田村秀生(日本新薬)からサウスポーの高橋尚成(東芝=元・横浜DeNA)、アンダーハンドの宮田 仁(日産自動車)と多彩な継投で相手打線の目先を交わそうと試み、四番に座るキーナン・キィミィ(NTT関東)が2本塁打と気をはくも、空中戦を8対13で落としてしまう。

 

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日本代表の四番に座ったキーナン・ティミィ。

 

 2巡目の対戦はチャイニーズ・タイペイに10対11、韓国にも2対9で敗れて1勝3敗。4戦全勝の韓国が1位、失点差で2位となった日本は、準決勝では三たびチャイニーズ・タイペイと対戦することになる。

 

衝撃の試合展開がプロ選手派遣のきっかけになる

 

 日本は田村が先発するも、1回表のチャイニーズ・タイペイは猛攻を仕掛けて一気に3点。たまらず日本は左腕の広田庄司(日本通運=元・福岡ダイエー)をマウンドに送るが、さらに2点を奪われて試合の主導権を握られる。日本が3回裏に1点を返したあとは互いに点を取り合い、4対8で迎えた5回裏、七番・阿部慎之助(中央大2年=現・巨人コーチ)からの連打で1点差まで詰め寄り、キーナンの2点二塁打で9対8と逆転。5回から立石、9回にはオリックスからドラフト4位指名されている木村昌広(日立製作所=元・中日)を投入してチャイニーズ・タイペイの反撃を凌ぎ、何とか2大会連続の決勝進出を果たす。

 中国に楽々と勝利を挙げた韓国は、決勝で朴贊浩を先発に立てる。1回表の日本は、一死から日本ハムドラフト5位の阿久根鋼吉(NTT関東)がライトへソロ本塁打を放って先制したが、その裏の韓国はリードオフの李炳圭(元・中日)から連打で瞬く間に逆転し、3回までに9点を奪って強さを見せつける。

 

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決勝に先発した韓国の朴贊浩(左)。高橋尚成(右)ら、日本の投手陣も金属バットを相手に奮投した。

 

 日本の投手陣も低目に集め、緩急も駆使したものの、金属バットを手にしたプロ選手の打球に内野手は一歩も動けず、5回裏にも4点を追加されてしまう。そうして、日本が7回表の攻撃を無得点で終えるとコールドゲームが成立。1対13という衝撃的なスコアで2大会連続の金メダルを逃す。

 漢陽大を中退してロサンゼルス・ドジャースと契約した朴贊浩には兵役の義務が残っていたが、この金メダルによってチームメイトとともに免除される。そして、韓国のプロ選手は金メダルで兵役が免除されることをモチベーションに、現在でもアジア競技大会に出場してくる。

 

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表彰式で銀メダルを授与された日本代表の選手たち。

 

 なお、日本野球連盟の山本英一郎会長は、この敗戦を受けて「プロ選手が日本代表入りしなければ、シドニー五輪アジア予選で苦戦を強いられるのは明らか。予選敗退などということがあってはならない」とプロ側に力説。翌1999年から、日本代表には条件つきながらプロ選手が派遣されるようになる。