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【GAME033】1994年第24回四国大会決勝/日本生命×大和銀行

 今年も第77回東京スポニチ大会で社会人野球のシーズンが開幕し、東芝が優勝して日本選手権の出場権を得た。これから6月の北海道大会まで、日本選手権の出場権をかけた10JABA大会が行なわれる。さて、現在はリーグ戦と決勝トーナメント方式の各大会も、かつてはトーナメントで王者を決めていた。今回から2か月間は、それらの大会で活躍した選手やチームにフォーカスする。まずは、1994年の第24回四国大会を取り上げる。

 1994年の社会人には、大学球界のスターが飛び込んできた。早稲田大の仁志敏久(現・横浜DeNAファーム監督)である。常総学院高1年夏から甲子園の大舞台で躍動した遊撃手は、大学でも目立つ成績を残し、ドラフト1位は間違いないと見られていた。だが、ドラフト会議を前に、仁志は「アトランタ五輪を目指すために社会人へ進みたい」と表明。ほどなく日本生命への入社が内定する。

 171cmと小柄ながら、早稲田大の4年間で打率.32511本塁打40打点をマークし、ベストナインにも3回選ばれた仁志は、金属バットを手にするとパワフルな打撃を見せる。3月の東京スポニチ大会では、いすゞ自動車との一回戦に三番ショートでデビュー。1本塁打、2二塁打を含む4安打2打点をマークし、NTT東京(現・NTT東日本)との二回戦でも2安打1打点を叩き出す。

 東芝との準々決勝は延長1267で敗れたが、1安打1打点で新人賞と大会優秀選手に選出される。それから約1か月後、日本生命は47日から香川県営野球場で開催された第24回四国大会に出場する。

 

今では考えられないほど慌ただしいシーズン

 

 日本生命の打線はこの大会でも好調で、二回戦から登場すると、東京ガスを相手に119で打ち勝つ。NTT中国との準々決勝でも9点を奪い、投げては仁志と同期入社の稗田哲也が1失点完投で、ゆうゆうとベスト4に進出する。そして、準決勝ても四国銀行の3投手から10点をもぎ取り、池添修世が6点を奪われながらも粘り強く完投勝利を挙げる。そうして、大和銀行との決勝へ駒を進める。

 

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ルーキーながら、最高殊勲選手賞に輝く活躍を見せた仁志敏久(日本生命=上)、

19歳で決勝に先発した佐久本昌広(大和銀行)。

 

 大阪市を本拠地とする大和銀行は、まだ都市対抗、日本選手権とも本大会へ出場した経験のないチームだった。だが、この大会は初戦(二回戦)でトヨタ自動車に54で競り勝ち、準々決勝ではNTT四国を72で下す。さらに、平良コピーと対戦した準決勝も63で制し、決勝まで駆け上がってきた。27歳の右腕・玉野大悟がエースでフル回転していたが、日高高中津分校から入行して5年目の芝崎和広(元・西武)が頭角を現し、準々決勝では完投勝利を挙げた。

 それでも、想定外の決勝進出で投手が足りない。しかも、準決勝は第1試合で日本生命が勝ち上がったあとに降雨で順延となり、最終日は大和銀行だけがダブルヘッダーというハンデもある。そこで、久留米工大附高から入行して2年目、まだ19歳の左腕を先発させる。のちにプロで活躍する佐久本昌広(現・福岡ソフトバンク・コーチ)だ。対する日本生命は、23歳の安達博史が先発する。

 1回表に仁志のタイムリー安打で1点を先制した日本生命は、3回表にも仁志がチャンスをものにして2点目を奪う。佐久本はその2失点で踏ん張っていたものの、5回表に日本生命の四番・川村祥一がライトへ豪快な満塁本塁打を放ち、60としてほぼ勝負を決める。さらに、6回表一死二、三塁から十河章浩(前・監督)の二塁打で日本生命はリードを8点に広げるも、7回裏に大和銀行も3点を返して意地を見せる。

 試合はこのまま83で日本生命が勝ち、2年連続4回目の優勝を果たす。最高殊勲選手賞には、決勝でも2安打2打点の活躍を見せた仁志が選出された。仁志は、大学時代から選出されている日本代表としても目立つパフォーマンスを披露し、この年も都市対抗予選前には日本・キューバ選手権、都市対抗直後にはニカラグアで開催された第32回世界選手権大会に出場。さらに、日本選手権前には、野球が正式競技に採用された第12回アジア競技大会で優勝に貢献するなど、今では考えられないほど慌ただしくルーキーイヤーを過ごす。

 

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投打に圧倒的な力を発揮し、2年連続4回目の優勝を果たした日本生命の選手たち。

 

 一方、日本生命に14安打8失点と打ち込まれたものの、佐久本も登板する度に安定感を高め、翌1995年には日本生命に補強されて都市対抗のマウンドに立つ。そして、ドラフト4位で福岡ダイエー(現・福岡ソフトバンク)へ入団。そして、1999年の中日との日本シリーズ第5戦には先発登板する。大和銀行は1999年限りで活動を休止したが、この年から数年間は全国を狙える力をつけ、1998年には念願だった日本選手権初出場を果たした。