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【GRAND SLAM PREMIUM234】ビジネスでも活躍する社会人野球OB① 田原伸吾さん(TDK)

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 1985年と言えば、KKことPL学園高の桑田真澄(現・巨人コーチ)と清原和博(元・オリックス)が高校球界を席巻した年。だが、当時、同じ大阪でその清原よりもホームランを量産し、ライバル視された選手がいた。此花学院高(現・大阪偕星学園高)の田原伸吾さんだ。高校3年間の通算本塁打は78本。64本だった清原を大きく上回った。

「マスコミは清原のライバルという図式を作りたかったでしょうが、僕自身はそんなに意識しなかった。本数だけで単純比較はできないですよ。PLは練習試合も少ないでしょうし、相手も強いところばかりですから」とは、かつて田原さんに聞いた高校時代の思い出だ。卒業後は明大で活躍し、1990年に熊谷組へ入社。「当時は、半分プロみたいな選手の集まりでした。あまり練習は長くないのに、都市対抗には出て当たり前」の名門で1年目から東京スポニチ大会の優勝に貢献し、2年目の同大会でも2本塁打を放っている。ところが、バブル崩壊のあおりを受けて業績が急激に悪化。93年の活動休止を待たず、田原さんは92年に秋田県仁賀保町(現・にかほ市)のTDKへ転籍することになる。

 当時のTDKは、2回目の出場を果たした1981年以来、都市対抗から遠ざかっていた。確かに、名門でプレーした田原さんの目には、やや物足りないレベルに映る。長いブランクがあるから、誰も都市対抗を知らないようなもの。事実、春季キャンプ初日に当時の主将と副将が田原さんの部屋を訪ねてきた。

「俺たちは勝ち方をよく知らん。勝つために、どうしたらいいと思う?」

「そこまでの地方大会などは負けてもいいですから、都市対抗予選に照準を絞りましょう。とにかく、予選にピークを持っていき、試合になったらピッチャーは3人が3回ずつ投げるつもりでいけば、何とかなるかもしれません」

 すると、その年の5月の東北大会で、四番に座る田原さんが朝日生命との初戦(二回戦)では先制ホームラン、新日本製鐵名古屋との準々決勝も先制打を放つなどで、TDKは準優勝を果たす。さらに、勢いに乗って都市対抗東北二次予選も突破し、チームは11年ぶりの東京ドーム出場を遂げるのである。

「僕も信じられないくらい、上手くいきました。何より、練習メニューを一任され、試合では四番に座る重圧があったので、ホッとしたのが一番。本大会では一回戦負けでしたが、町も会社も盛り上がってくれて、TDKに移ってよかった、と感じましたね」

 

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TDKの主砲として活躍する田原伸吾さん(左)。右は海外赴任中に中国・深圳のオフィスで。

 

 チームは翌1993年も都市対抗に出場。この時も勝ち星は挙げられなかったが、連続出場をきっかけに常連となり、2006年の初優勝につなげている。田原さんは1994年まで現役を続け、1996年には熊谷組OBが立ち上げた熊球クラブに社業の傍ら参加。1997年には、全日本クラブ野球選手権大会で準優勝した。「1992年の都市対抗で準優勝したメンバーが、まだバリバリで面白かったですよ」と話すように、2000年にシンガポールへ赴任してからも、試合日程に合わせて休暇を取り、熊球クラブでプレーを続けた。

 海外赴任はシンガポールを皮切りにタイ、香港、中国と続き、2021年に帰国。営業という部署で「成果を上げなくちゃいけないから、必死でしたよ。単語ひとつ間違えれば会社の損害になるので、まずは最低限の現地の言葉を覚えるところからでした」と振り返る。とはいえ、それだけ長く海外赴任が続く例はそうあるわけではなく、営業マンとしても敏腕なのだろう。最低5kmのランニングを、1日も欠かしたことがないという田原さん。

「シンガポール時代は、元メジャー・リーガーもいるようなレベルでソフトボールを楽しみ、息子がお世話になっていたベースボールクラブ・シンガポールで指導を手伝ったりしました」

 そして、こうつけ加えた。

「空気を読む、という言葉は好きではないですが、自分のプレーだけではなく周囲を見ることが必要な野球の経験は、多少なりともビジネスに役立っていると思います」

 今日も、ビジネスの最前線に立つ。

【文=楊 順行】

 

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