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シリーズ監督論「教え、教えられ」 日本製鉄鹿島・藤澤英雄さん 社会人野球NOW vol.60

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社会人野球の日本製鉄鹿島の新監督に、昨年まで14シーズン、コーチを務めた藤澤英雄さん(51)が就かれました。通算16シーズン、チームを指揮した名将、中島彰一さん(58)の後を継ぎ、強化に励みます。掲げたチームスローガンは「原点回帰~礼節・忍耐・努力・和~」。茨城県鹿嶋市の活動拠点を訪ね、チーム作りに懸ける思いを伺いました。【聞き手 毎日新聞社野球委員会・藤野智成】

 

=チーム作りの構想を語る藤澤英雄監督

スローガンは「原点回帰」

 ――監督就任を打診された時の心境はいかがでしたか。

 ◆藤澤監督 コーチとは責任感が全然違いますので、プレッシャーを強く感じたのを覚えています。ただ14年もコーチをしていたので、いずれはやってみたいとの思いはずっと持っていた。その時が来たか、との思いもありました。

  ――コーチ時代と選手との距離感は変わりましたか。

 ◆変わっていないと思います。「監督」と呼ぶなっていう風にも言ってます。恥ずかしいのもありまして、これまで通り、「藤澤さん」と呼んでもらっています。監督としてもちろん、責任は重くなりますが、それ以外のところは、これまでと変わらずやっていきたいと思っています。中島さんは選手が何を考えているか、常にコミュニケーションを図り、気になるところがあれば、声をかけて、悩みの種を小さいうちにつぶすのに非常にたけていました。私も選手と会話をし、信頼関係を築きながら指導していこうと思います。

  ――選手を集めて方針説明はされましたか。

 ◆はい、今シーズンのチームスローガンを「原点回帰」に決め、その思いは選手に伝えました。これはほぼほぼ、自分に向けての言葉です。これまでの野球人生を振り返り、足元を見つめ直そうとの思いから決めました。野球が与えてくれたものを振り返りながら、何ができて、何ができていないのか、じゃあ、これから何をするのか、っていう点をもう一度考えようと思い、その精神を選手にも話し、みんなも考えていこうと呼びかけました。

  ――今シーズンの目標を教えてください。

 ◆当然、目指すのは日本一です。都市対抗も日本選手権もチームの最高成績はベスト4です。選手の実力からして、日本一を狙える力はあると思いますので、しっかり目指していきたい。あと、選手たちには「日本一にふさわしいチームになろう」と伝えています。つまり、愛されるチームであり、強いチーム。それをチーム作りのテーマに掲げています。

  ――求められるのは技量だけではない、ということですか。

 ◆そうです。社会人野球は応援されてなんぼだと思います。会社内にしても、地域にしても、どれだけ多くの人に応援してもらえるかが大事です。熱い応援をいただいている恩返しに我々にできることは何か。一体感の醸成や士気の向上、それは私たちの存在意義でもあります。身だしなみや言葉遣い、あいさつ、基本的なことから、社会人としての人間的成長がなくては、愛されるチームにはなりえません。その上で強いチームを目指す。ダブルドーム(東京ドーム、京セラドーム大阪)にしっかり出て、応援に来ていただける強いチームを作っていきたいと思います。

 
=優勝した2002年の第73回都市対抗野球大会でプレーするいすゞ自動車時代の藤澤さん

休部、解散乗り越え現場一筋

 ――先ほどの「原点回帰」のスローガンはほぼほぼ、自らに向けたものであり、野球人生を見つめ直されている、と。振り返ると、起伏に富んだ野球人生を歩んでこられたと思います。最初に入社した、いすゞ自動車では、都市対抗優勝と休部を経験されました。

 ◆入社7年目のシーズンでした。主将で迎えた2002年春季キャンプで、そのシーズン限りでの休部を告げられました。落ち込んだのを覚えています。でもあのシーズンは不思議な力が出たような気がします。予選から神がかった勝利があり、都市対抗本大会に進んでも、難敵が先に敗れてしまうなど、結局本大会で1度もリードを奪われることなく、背中を押されるように頂点にたどり着きました。都市対抗は晴れ舞台。あそこで野球をするために野球をやっているし、あそこで野球をできる幸せをかみしめました。創部56年での初優勝となり、楽しい思いのままチームの活動を終えました。

  ――移籍先はシダックスとなりました。同時に就任したのが、プロ野球でヤクルトを3度の日本一に導いた名将・野村克也さんでした。どんな存在でしたか。

 ◆大きな存在でした。選手たちをとてもうまく使う。これまで自分では感覚的にやってきたことが言語化されるような感じで、一つ一つ、これでいいんだ、と確かめながら前に進んでいたことを思い出します。当時、私もベテランの部類でしたが、「ベテランが言うことを聞かない」というように、遠回しに、選手自ら気づくように声かけされ、もっとこうしなきゃ、と考えて動くようになりました。「準備野球、準備野球」とよく言われていましたが、結果より過程が大事ってことで、普段の選手の動きを鋭く観察されていました。多くを学ばせていただきました。

 ――シダックス移籍初年の2003年に都市対抗で準優勝を果たされました。しかし、チームは06年限りで解散となりました。当時33歳。簡単には移籍先が見つからないと思いますが、住友金属鹿島(現・日本製鉄鹿島)から声が掛かりました。

◆引っ張っていただいたのは、前監督の中島彰一さんです。まだ私の移籍先が決まっていない時期、雨の中の関東リーグ戦を観戦いただきました。土砂降りなのに、私が楽しそうに野球をやっていたようなんです。気合の入っている元気なやつが大好きな監督さんで、その姿を見て(獲得を)決めていただいたという話を聞いています。2010年の都市対抗でチームは過去最高成績に並ぶ4強入りし、そのシーズンを最後に現役引退し、それから14シーズン、コーチを務めさせていただきました。私の野球人生、本当に周りの方々のおかげでつながれてきました。

 

=2007年の第78回都市対抗野球大会で安打を放つ住友金属鹿島(現・日本製鉄鹿島)の藤澤さん

名将に通底する教えは「考える」

――野村さん、中島さん、名将と呼ばれる方々をはじめ、多くの指導者から学ばれてこられましたが、通底している教えはありますか。

◆法政大時代の山中正竹監督、都市対抗で優勝した時のいすゞ自動車の川崎泰介監督、野村監督、中島監督……お世話になった多くの指導者の方々の教えを取り入れてチーム作りをしていきたいと思っています。皆さんに共通しているのは、考える、っていうところだと思います。山中さんは、練習メニューをもっと効率よくできるのではないか、と見直しを図られていましたし、川崎さんとは監督、主将の間柄でしたが、川崎さんは「自分で考えてみろ」と常におっしゃられ、サポートをしっかりしていただきました。

――当時はまだ指導者の言うままに動くのが主流で、選手が主体的に考えることが少なかった時代だと思います。やはり、選手自ら考えることで成長のスピードが違いますか。

◆受け身でいるのと、自分から考えるのでは、成長度合いは全く変わってきます。自分で考えて動かないと成長につながらないと思います。周りが見えて、自分で考えられると、自分を変えられます。年間通じて、プレーである程度の数字を残せたとしても、日本一になるためには勝負どころの、その何球かをいかに打つか、そこをいかに考えられるかが大事になります。現状に満足せず、さらに上のレベルに行くには何が足りないか、自分で気づいて動き出せる選手は伸びます。

加えて、考えて人を動かす、こともキーワードとして選手に伝えています。全員がリーダーになり、自分、周りを見て、考えて人を動かしなさい、と。生田目忍がキャプテンですが、練習では毎日日替わりの選手に、リーダーとしてテーマを決めさせています。これは中島監督の時からの取り組みで、継続しています。

――さて、目標の日本一に向けて始動です。

◆春のキャンプで一体感を醸成し、一丸となってシーズンに臨みます。北関東は競争が激しくなり、もう昔の3強(日立製作所、日本製鉄鹿島、SUBARU)時代ではありません。昨年はJABA大会で2つ優勝(日立市長杯、北海道大会)する力がありましたが、都市対抗の出場はかなわず、日本選手権は本大会ベスト8でした。選手の力を出させてあげられなかったのが課題ですし、1点差ゲームも勝ち切れていません。いかに1点を取り、どう1点を守っていくか。そこは私の仕事だと思っています。

――常に野球のことが頭から離れないんじゃないですか。

◆気づくと常に何か野球のことを考えていますね。あの選手をどう起用しようか、チームになんと話をしようか、と。コーチ時代はリラックスして、頭を空っぽにする時間があったんですが……。繰り返しになりますが、野球人生いろいろあった中で、仲間と出会い、いい指導者に巡り合い、ここまで野球を続けられる強運に恵まれています。だから、原点回帰して、まだまだ恩返ししていかなくてはいけないと思っています。

 

ふじさわ・ひでお 1973年生まれ、大分市出身。県立大分東高から法政大に進み、内野手として活躍。1996年、いすゞ自動車に入社し、主将として2002年の第73回都市対抗野球優勝。チームはそのシーズン限りで休部し、03年からシダックスに移籍した。野村克也監督率いるチームで03年の都市対抗準優勝に貢献。04年に遊撃手で社会人ベストナインに選ばれた。06年シーズン限りでチームが解散となり、07年から住友金属鹿島(現・新日鉄鹿島)に移り、10年シーズンを最後に現役引退。11年から14年間、コーチを務めた。鹿嶋市在住、家族は妻と娘2人。