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計16シーズンを指揮し、昨秋勇退 日本製鉄鹿島・中島彰一前監督が選手たちに「おやじ」と慕われた理由 社会人野球NOW vol.54

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 このオフ、社会人野球の名将がまた一人、ユニホームを脱ぎました。計16シーズンにわたって日本製鉄鹿島を指揮した中島彰一監督(58)。都市対抗、日本選手権の2大大会への道のりが遠く、苦しい時期もありましたが、知恵と工夫をちりばめた手腕でチームを強化してきました。選手として、マネジャーとして、監督として、長年社会人野球に携わってきた中島監督に、改めて会社や選手への思いを語っていただきました。【聞き手 毎日新聞社野球委員会・中村有花】 

=社会人野球関東地区連盟の納会で挨拶をする日本製鉄鹿島の前監督・中島彰一さん

寂しさよりも、「しっかり次の監督につなげてよかった」

――監督就任は2002年。その後、一度は退任されましたが、低迷していたチームの再建を託されて2015年12月に復帰し、昨秋の第49回日本選手権まで指揮を執られました。少し時間が経ちましたが、現場を離れた現在の心境はいかがですか。

◆中島さん 寂しさというよりは、しっかり次の監督に繋げてよかったなと。今は、ほっとしているというのが一番素直な感想かなと思います。

 

――日本選手権ではチームは準々決勝の三菱重工East戦で惜しくも敗れましたが、持ち味の粘りに加えて勢いある強さも見せてベスト8入りしました。

◆選手たちには、私の最後という思いももちろんあったとは思いますが、チームとしてしっかり勝ちたいという、気持ちの入った試合ができました。地力はあるので、それを表現できた大会だったのではないかと思っています。

 

――退任を選手に告げたのは、日本選手権のために大阪入りしてからだったと伺いました。その意図は。

◆どういう風な変化が起こるか非常に微妙ではあったんです。ただ、言ったことによっておかしくなるというよりは、うちの選手の気質から言うと、「最後に」という思いでチームを一つにする力には作用するんじゃないかとは感じていました。

 

――試合が終わった瞬間はどんな思いが頭に浮かびましたか。

◆もう一つ、二つ、勝ちたいな、勝たせてあげたかったなという思いはありました。ただ、その後のことはあんまり考えずに、「終わったな」というのが率直な心境でした。応援団のみなさんには感謝の気持ちがありましたね。スタンドから「監督!」なんていう声も聞こえていまして、そういった意味では、いろんな人にご支援していただいたおかげで、いい思いができたなと感じながら終わりを迎えることができました。

 

――今年で最後と告げられたときの思いはいかがでしたか。

◆会社の方から「今年で勇退してしてください」という形で言われたので、「お世話になりました」という感覚でした。毎年覚悟していたというか、監督自体そんなに長くやるものではないと思っていましたし、もう年齢も、部長さんや副部長さんよりも上になってしまっていたので、ずっと、次に繋げられるチームを作らなければ、という意識はありました。

これまでにも会社には「遠慮しなくていいですよ、いつでも言っていただければ喜んで身を引くので、遠慮なく野球部の運営をしてください」という風には伝えていたんです。それが、今年になっただけ。来年が不安になるようなチームでは渡したくなかったのですが、そういった意味では、非常に選手層も含めて、いい形で次の監督に渡せたのではないかと、自分の中では満足感はあります。

 

――監督としての在籍期間は計16シーズン。振り返って、一番頭に思い浮かぶことはなんですか。

◆非常に辛い時期というか、低迷期がありました。そこから一つずつ、一つずつ、上に上がってきました。今はどこと試合をしても、そこそこ戦えるようになったと思いますが、やはり鹿嶋は田舎なので、選手確保の面などでは苦労したなというところはあります。都会の大学の選手になかなか鹿嶋に来てくださいといっても難しいんですよ。だから、九州とか北海道など広い地域からいい選手を探すなど、いろいろと工夫しながらやっていました。そうしながら戦える陣容が揃ってきたのが、ここ45年のところでしょうかね。

 

人間的な成長がないと、野球は絶対に上達しない

――若い選手を育てて、成長していく姿を間近で見る。中島さんにとって、どんな時間でしたか。

◆そうですね、やっぱり野球の技術も大事なのですが、人間的な成長がないと野球って絶対に上達しないんですよね。人との付き合い方などを学びながら大人になっていくにつれて、野球の技術も非常に向上していく。野球もそうだけど、人間的にも成長したねと感じるときが、嬉しい瞬間ですね。

 

=昨年の都市対抗出場を決め、胴上げされる日本製鉄鹿島の中島彰一監督

――中島流の手腕とは。

◆キャプテン経験のない人を主将にするのが、僕のやり方です。大学、高校でキャプテンをやっていたという選手は、あんまり僕はキャプテンに据えていないんです。ちょっと不安だな、心配やなっていう選手をあえてキャプテンにして、それを周りがどうサポートしていくか。そうしてキャプテンになった選手が成長することが、チームの成長に繋がっていくんじゃないかなと思っています。

人の前で話をするには、自分の意思とか、思いがないとできないものです。我関せず、というような選手をあえてキャプテンにして、チームをまとめるには、「自分がチームメートを振り向かせるにはどういうことしたらいいか」と考えることが、選手の成長に結びつくというのは感じていたんです。それでもやっぱりトータルで16年やりながら、うまいやり方が見えてきたって感じです。

 

――選手との接し方に変化はありましたか。

◆最初に監督に就任した時は35歳だったものですから、どちらかいうと兄貴的存在。選手とも年齢も近かったですし、一緒に選手時代を過ごした選手と監督として付き合うことになったわけですから、どっちかというと実際は(距離感が)近いんだけども、あえて一線を引いたような接し方をしていました。

ただ、(2度目の就任でチームに)戻ってきた時には、もう自分の息子ぐらいの年齢の選手ばかりになりましたから、あえてその垣根を取り外しました。厳しいところはもちろん厳しく言いますが、フランクに付き合うところは結構フランクに接しました。家に選手たちがお酒を飲みに来たりとかですね。

 

――自宅に呼ばれるのですか?

◆呼ぶと言うよりも、「監督の家に行っていいですか」っていうような感じで選手がうちに来てくれたりするんですよ。あえて自分が自宅に呼ぶということは一切しません。来たい選手が来るんです。もてなす方も大変ですが、今ではもう勝手に冷蔵庫を開けて何か食べていたり、高いお酒を勝手に飲んだりしていますよ(笑)。でもそれも楽しかったですね。その辺の、年をとったからできる余裕じゃないですけど、そういうのはありましたし、やるときはきちっとやらないと、というメリハリも、割と年を取ったからできることなのかなとは思っていました。

 

選手とはフランクに 自宅にピザが届いたことも

――なかなか、年齢が離れた若い選手との付き合い方は難しいのではないかと推察しますが、チームの雰囲気の良さ、中島さんが選手から「おやじ」と慕われた理由はここにもあるのですね。

◆いきなり自宅にピザの出前が届いたこともあるんですよ。5枚ぐらい来て、仕方ないから受け取って、その後にピンポーンって鳴って、玄関に行くと選手が10人ぐらい来ている。先にピザが届いちゃったんですね。「来るんだったら言え。ピザが来るのが、お前らが来るという合図じゃねえぞ」と言うんですが、それで、ワイワイと夜遅くまで騒いでね(笑)。妻は自分の息子のように、選手が来るのを見越して普段から買い物をしてますよ。「選手が来たらこれを出すんだ」とか言いながら。これからは次の監督もいらっしゃるので、そこはある程度線は引かないとなっていうのは思っていますけど、そういうお付き合いを選手とはしていました。邪道だと言われるかもしれませんけども、もうそれでもいいかなと思っていましたね。

 

――1度目に監督を退任した後、野球との付き合い方に変化はありましたか。

◆たまたまですが、(2度目の監督就任までの)7年間のうちほとんどの年には社会人野球日本代表チームでコーチをしていました。そういった意味では、 毎年なんらかの形で野球には携わったんですよね。代表のコーチですからいろんな試合を気にして見なければいけないし、その間、茨城県の高校野球の解説もして、常に野球は近くにあった状況だったので、あまり野球から離れたという感覚はないんですね。

ただ、その7年間、会社でのサラリーマンとしての時間があったからこそ、2度目の監督を引き受けた時にはたくさんの方に応援していただいて、差し入れも相当いただくようになりましたし、それを機にたくさんの方が野球を見に来てくれるようになったりもしました。

 

――中島さんにとって社会人野球の魅力とは。

◆例えば全力疾走であるとか、チームのために犠牲になることであるとか、数字に現れないことを必死にチームのためにやってるっていう姿、お金じゃない、仲間のためにという思いがやっぱり社会人野球のいいところなのかなと思います。プロは活躍すればしただけギャランティーも上がって、その対価をいただけるんですけど、社会人は一緒ですから、特別ボーナスなんておそらくないところが多い。チームのためにとか、そういうことをいかに自分のモチベーションにできるかが社会人野球の大事なところだと思います。

 

 なかじましょういち 1966年、茨城県出身。茨城・取手二高3年時には1984年夏の甲子園の決勝で大阪・PL学園高の桑田真澄投手から3点本塁打を放つなどして優勝。東洋大を経て1989年に住友金属鹿島(現日本製鉄鹿島)に入社し、主に捕手として活躍。コーチ、マネジャーも経験した。2002年から7年間、監督として指揮を執り、退任後は社業に専念する傍ら、社会人日本代表のコーチも務めた。その後、2大大会(都市対抗、日本選手権)出場を逃すなど低迷していたチームの再建を託され、15年12月に監督に復帰した。