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半世紀の歴史を刻む全日本クラブ野球選手権大会 クラブ野球レジェンド紹介・中 社会人野球NOW vol.110
クラブチーム日本一を決める全日本クラブ野球選手権大会(9月7日決勝・東京ドーム)は今夏、50回目の節目を迎える。それを記念し、全国九つの日本野球連盟地区連盟から推薦いただいた、クラブ野球の歴史に名を遺す「レジェンド」の軌跡を紹介する2回目。
◇四国地区連盟推薦
松山フェニックス監督・田渕哲也さん(39)

=現役時代の田渕哲也さん
「野球王国」愛媛にクラブ野球の灯をともし続ける松山フェニックスで存在感を示してきた。
チームは2000年、愛媛県唯一の企業チームだったNTT四国の廃部を受け、「野球王国・愛媛から社会人野球の灯を消したくない」と願う人々の尽力で誕生した。チーム名の「フェニックス(不死鳥)」には、一度野球から離れた選手たちの再挑戦への思いが込められている。
田渕さんは地元・松山商高から松山大と好打の内野手として活躍するも、企業チームとは縁がなく、09年に入団した。「大学卒業後も野球は続けたかった。先輩たちが多く在籍していたこともあり、『一緒にやらせてさせてください』とお願いした」。とはいえ普段は仕事に追われ、活動は週末が中心。「本当に野球が好きでなきゃ続かない」環境だったが、「野球でもう一花咲かせたい」思いが支えとなった。
全日本クラブ野球選手権大会には選手として5度出場し、準優勝2回。入団1年目の第34回大会では1番・三塁手で打率5割3分3厘をマークし、首位打者賞を獲得した。最も記憶に残るのは、主将として臨んだ第39回大会(14年)。打率6割8分8厘で2度目の首位打者に輝くとともに、サイクル安打も達成して大会の特別賞も獲得。「忘れられない思い出になった」。18年からは兼任コーチを務め、コロナ禍だった20年に監督を引き継いだ。
「加盟チームが少ない四国では、クラブチームにも都市対抗出場のチャンスがある。そして、クラブ日本一も狙える」。自らの経験をもとに、選手たちには常々「全国から注目される存在なんだよ」とチームの存在意義を意識させているという。「高校、大学でなかなか活躍できなかった選手や、地元に帰って野球を続けたい選手の最後の受け皿でありたい」。その言葉にクラブ野球への愛情が詰まっている。
◇東海地区連盟推薦
静岡硬式野球倶楽部監督兼代表・金田穂波さん(51)

=金田穂波さん
30年にわたって投手として、監督として、そして代表として静岡硬式野球倶楽部を支え続けてきた。
静岡西高から上武大を経て1997年に入部したが、もともとクラブチームの存在を深く理解していたわけではなかった。当時は企業チームの休部が相次いでいた時期でもあり、「地元で硬式野球を続ける道を探した先にクラブチームがあった。いざ自分が入るまでは何も知りませんでした」と振り返る。
環境は決して恵まれていなかった。専用グラウンドはなく、練習場所が決まるのも直前だった。調整は難しく、母校やジムに自ら足を運んで試合に合わせて体を作った。入部から2年ほどは思うような結果が残せず、「『もうやめようかな』と思ったこともあった」という。それでも「何より野球が好きだったんでしょうね」。決して白球を手放すことはしなかった。
全日本クラブ野球選手権大会には4度出場。2003年の第28回大会では全4試合に登板し準優勝に貢献した。自身も敢闘賞を受賞し、「鉄腕」として全国に名をとどろかせた。
11年からは選手兼任監督としてチームを率いる。「もともと20代後半あたりから、練習相手探しや練習の組み立てなどマネジメント次第でチームは変わるはずだと感じていました。チームを強くしたい思いがあり、自分から手を挙げました」。チームの代表職も兼ね、選手集めから対外折衝、運営管理まで担ってきた。
現在は高校や大学とのつながりを広げながら、硬式野球を続けられる場を守ることにも力を注ぐ。「大人になっても硬式野球は楽しめるんだよ、ということを、もっともっと広めていきたい」。その思いこそ、クラブ野球の本質を示している。
◇東北地区連盟推薦
水沢駒形野球倶楽部副部長兼総監督・及川正勝さん(77)

=水沢駒形野球倶楽部発祥の地とされる駒形神社前に立つ及川正勝さん(右)
100年を超える老舗クラブの歴史と伝統を引き継いで半世紀以上。1967年の入部以来、人生の大半をチームとともに過ごしてきた。
1920年の晩秋、岩手県奥州市水沢の駒形神社境内で近所の若者がマリ投げ(野球)をしたのが、チーム創設のきっかけ。翌21年に発足した。戦時中には多くの部員が軍隊に召集され、終戦後も用具不足や部員確保に苦しみ、球場が食糧難から畑に変わったこともあったという。幾多の困難を乗り越え、地域の人々とOBの思いに支えられながら歴史を紡ぎ、チームは地元ファンから「地域のヒーロー」として愛されて現在に至る。
自身は内野手として80年の第5回、81年の第6回全日本クラブ野球選手権大会に出場。85年から2017年までは監督としてチームを2度の準優勝に導き、「強豪クラブ」の礎を築いた。
「正直、ここまで長くやるとは思っていなかった」と振り返りつつ、「私は環境に恵まれていた。監督といっても、普通なら時間が取れなければできない。私は仕事の融通が効いただけに、ついつい長くなってしまって」と笑う。「でも、全国大会で勝ちたい、優勝したい思いは誰にも負けなかったね」という言葉には、クラブ野球にかけてきた情熱がにじむ。
17年の第42回大会後に監督を勇退し、翌18年からは副部長兼総監督としてチームを見守ってきた。平日仕事前の早朝6時から集まる「朝練」がチームの伝統。自身も今年4月に心筋梗塞を患うまで、数十年にわたって参加し続けてきた。
現在、チームは野球教室やティーボール教室の開催など地域貢献に取り組み、選手の多くも地元企業で働きながらプレーする。「何とかチームの伝統を絶やさないようにとの思いだけでやってきたが、つらいと思ったことは一度もない」。クラブ野球を次世代へとつなぐ者の矜持である。
【毎日新聞社野球委員会・和田崇】
※次回の社会人野球NOWは6月23日公開予定です。
