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半世紀の歴史を刻む全日本クラブ野球選手権大会 クラブ野球レジェンド紹介・下 社会人野球NOW vol.111
クラブチーム日本一を決める全日本クラブ野球選手権大会が今夏、50回の節目を迎える。それを記念し、全国九つの日本野球連盟地区連盟から推薦いただいた、クラブ野球の歴史に名を遺す「レジェンド」の軌跡を紹介する最終回。今回推薦を受けた9名のレジェンドのうち、お一人が9月7日(月)に東京ドームで行われる第50回全日本クラブ野球選手権・決勝で始球式を行う予定だ。
◇関東地区連盟推薦
全足利クラブOB・岡田幸文さん(41)
=岡田幸文さん
クラブチームからプロ野球へ。後に続く選手たちに希望の道を切り開いてきた。
栃木県高根沢町出身。子ども時代から社会人野球への憧れが強かったという。「父が企業チームで野球をしていたこともあり、幼い頃から都市対抗の話を楽しみに聞いていました」。作新学院高から日大に進むも、ひじのけがもあって入学間もなく退学した。「本当は働きながら野球がしたかった。気持ちの整理がつかないまま大学に行った上に、けがも重なってしまって」。だが、この挫折が野球人生の大きな転機となった。地元に帰り、改めて野球を続ける場として選んだのが全足利クラブだった。
2004年に入部。足利市内のガス会社で働きながらの活動だった。「仕事の後の練習は本当に過酷。でも、野球への情熱だけで毎日やっていました」。入部1年目にして全日本クラブ野球選手権優勝も経験した。
持ち前の俊足、堅守がプロのスカウトの目に留まり、08年の育成ドラフト6巡目で千葉ロッテマリーンズから指名された。翌年に支配下選手登録を果たすと、10年から外野手として1軍に定着。打球方向の的確な読みと俊足を生かしてヒット性の当たりを捕球してしまう広大な守備範囲を誇り、ロッテファンからは背番号にちなんで「エリア66」と呼ばれたほどで、ゴールデングラブ賞も2度獲得。11年には外野手のシーズン連続守備機会無失策359のリーグ新記録を樹立し、18年オフに引退するまで10シーズンをプロの第一線で過ごした。
「プロに行けたのは全足利での5年間があったから」と自負し、「クラブチームでは技術だけでなく、野球人として、社会人として、人として、どう生きるべきかを教わった。地域の人々の思いを背負って野球ができることに感謝できた」と振り返る。
現役引退後は地元の独立リーグやプロ野球・東北楽天でコーチを歴任。現在は足利市の中学校部活動地域移行コーディネーターとして、地域の部活動環境充実のため奔走している。 「これからは野球で培った経験を生かして、地元の子どもたちの役に立ちたい」。野球への「恩返し」はまだ、道半ばだ。
◇九州地区連盟推薦
ビッグ開発ベースボールクラブ総監督・下地剛さん(67)

=第41回全日本クラブ野球選手権で初優勝し、胴上げされる監督時代の下地剛さん
沖縄の若者に、硬式野球を続けられる環境を整えた立役者である。
沖縄県内で不動産業などを展開する「有限会社ビッグ開発」の創業者。2008年にビッグ開発ベースボールクラブを立ち上げたが、そのきっかけは、自身が3年間コーチを務めた浦添商高の教え子が漏らした「まだまだ硬式野球をやりたいのに沖縄では続けられない」という一言だった。
「沖縄は高校野球のレベルは高いのに、その後に野球を続けられる受け皿がない。それならば自分たちで作ればいい」と決意した。自身に目立った野球経験はなく、「高校のコーチも息子の少年野球指導を手伝っていた縁で引き受けたほど」だったが、創部に向けて社会人野球の仕組みを一から学んだ。自ら部長と監督を兼任し、チーム作りの先頭に立った。
当初から順調だったわけではない。創部1年目は部員が集まらず、本格始動は高卒社員が入部した2年目から。琉球大学との交流戦でもなかなか勝てず、選手たちには「社会人としての成長がなければ野球も強くならない」と言い続けた。「みんな高校を卒業したばかり。まずは社会人の自覚を持たせることが第一でした」。午前に練習し、午後から仕事へ向かう毎日。さらに仕事後も坂道ダッシュなど自主練習に付き添った。
「特別なことはせず、基本を積み重ねる」。そんなチームのモットーの象徴だった一人が、創部時のメンバーだった嘉弥真新也(かやま・しんや)投手だ。「最初は『いつやめるかな』という雰囲気だった」というが、仲間に支えられながら練習に打ち込み、のちにJX-ENEOS(現ENEOS)に移籍して都市対抗野球大会にも出場。11年秋のプロ野球ドラフト会議で福岡ソフトバンクから指名され、その後10年以上、プロでプレーした。以来、下地さんは「選手をより高いレベルに送り出すことが、新たな目標になった」と言う。
全日本クラブ野球選手権大会に3回目の出場となった第41回大会(16年)では、九州勢として初のクラブ日本一に導き、24年からは総監督兼部長としてチームを支える。「選手、OBたちがしっかりとチームの伝統を作り、引き継いでくれている」。地元の球児たちの夢を途切れさせることなく、未来につなぐ。それもクラブ野球の持つ大きな役割だ。
◇北海道地区連盟推薦
函館太洋倶楽部元選手・監督・阪内俊喜さん(70)

=第12回日本クラブ野球選手権で準優勝した阪内俊喜さん
1907年創部の函館太洋倶楽部は、現存するクラブチームの中で最も長い歴史を誇る。北海道の社会人野球で長きにわたり中心的役割を果たし、都市対抗野球大会の敢闘賞「久慈賞」にその名を残す名捕手・久慈次郎さんもプレーした名門だ。「太洋」と書いて「オーシャン」と読むこだわりに、チームの伝統への深い敬意がにじむ。
阪内さんは函館有斗高では73年にセンバツ、74年は春、夏の甲子園出場を果たし、函館大でも全日本大学選手権を経験。卒業後は社会人・日産サニー札幌でプレーし、2年目からは4番を任されるなどエリート街道を歩んだが、都市対抗出場を逃したのを機に81年、地元・函館に戻り、日本最古のクラブチームに加わった。「当時から地元で就職したいと思っていた」と言いながらも、「昔はプロも目指せると思っていたぐらいでしたから、正直、地元に戻った当時は『クラブチームなんて』という思いもありました」と振り返る。
しかし新天地で多くの先輩や後輩と出会い、クラブの長い伝統を肌で感じたことで、新たな野球の楽しみも知った。「何より練習が大好きでした。練習、練習、また練習の日々だった」と懐かしむ。入部翌年から主将を務め、87年からは選手兼任監督として試合の采配を振るいつつ、打線の中軸も担った。全日本クラブ野球選手権大会では、86年の第11回大会は4番・主将として、翌第12回大会では4番・監督として、ともにチームを準優勝に導いた。その後も47歳まで現役を続け、仕事を抱えながら若い選手たちと毎日汗を流した。
2003年からは母校・函館大硬式野球部の監督に就任し、大学職員に転職。今年も全国大学選手権で指揮を執るなど、北海道を代表する野球部に育て上げた。
「『オーシャン』で野球をやれたことが、私の最大の誇り。これからもチームが存続していくことが一番の願いです」。地元で野球に関わり続ける阪内さんの歩みは、地域に根差すクラブ野球の価値と重なる。
【毎日新聞社野球委員会・和田崇】
※次回の社会人野球NOWは6月30日公開予定です。
