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人生第2幕、新ポジションは広報課長 JABA小林要介さん 社会人野球NOW vol.18

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 日本野球連盟(JABA)の広報課長に小林要介さん(34)が就いた。社会人野球の三菱自動車倉敷オーシャンズで選手、コーチなどとして活躍し、今春、新天地に移った。主戦場はダイヤモンドからオフィスへ。「社会人野球の魅力を広く知ってもらいたい」と第2の人生をスタートさせた。

 所属する三菱自動車工業を通じてJABAへの出向の話が舞い込んだのは昨年冬だった。10月限りでチームのコーチを退任し、社業で工程管理の職務に専念する矢先だった。「誰でもできる経験ではない。外から三菱という会社を見る機会になるし、自分にとってプラスになる」。決断を応援してくれた妻と5歳の長男、3歳の長女を岡山県倉敷市に残して、ことし3月、単身、東へ進路を取った。

 関係者へのあいさつ回りを重ね、広報という仕事を覚える日々が始まった。SNSを駆使した広報戦略の重要性を他競技団体の実践例などからも学ぶ。7月に社会人野球最大の祭典「第95回都市対抗野球大会」(東京ドーム)を控える。「都市対抗はお祭り。応援合戦もあって、あの素晴らしさを多くの人に球場で味わってほしい」。そんな思いが日に日に大きくなる。

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新天地となるJABAのオフィスで仕事に励む小林要介さん

 日大三高、「懸命」で開花 斎藤佑樹さんから3安打

 大阪府堺市に生まれた。小学2年で野球を始め、中学硬式野球チーム「羽曳野ボーイズ」に進んだ。ダルビッシュ有投手を輩出した名門で、ダルビッシュ投手が東北高(宮城)に巣立った年に入れ替わりでチーム入りしたのが小林さんだった。練習に励んで頭角を現し、日大三高(東京)から誘いがきた。

 親元を離れての寮生活が始まった。名将、小倉全由監督(当時)の教えは「野球に限らず、何事にも一生懸命に打ち込め」だった。ひたすら実行した。162センチと小柄だが、バットを振り込み、堅守巧打の内野手として、1年の秋にはレギュラーになった。

当時西東京大会には1学年上に、早稲田実高のエースに斎藤佑樹さんがいた。斎藤さんは2006年夏の甲子園決勝で、田中将大投手擁する駒大苫小牧高(南北海道)と引き分け再試合の末、優勝した。その甲子園に進む前の西東京大会決勝で小林さんは斎藤さんと対戦している。延長十一回、4―5でサヨナラ負けしたが、小林さんは「2番・サード」で出場し、斎藤さんから5打数3安打と結果を残した。神宮球場で開かれたその試合、内野席だけでは観客が収まりきらず、外野席も開放された。熱気にあふれたあの光景は今も覚えている。

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=JABAの広報課長に就任した小林要介さん

痛恨のサヨナラ負け乗り越え コーチで悲願の都市対抗へ

明治大を経て12年、倉敷オーシャンズへ進んだ。苦い思い出は13年の都市対抗中国2次予選、JFE西日本との第2代表決定戦。1点リードで迎えた九回裏、同点とされて、なお1死満塁のピンチとなった。途中出場で二塁の守備に就いていた小林さんにゴロが飛んできた。一塁走者にタッチして一塁へ送球してダブルプレーでチェンジ――のはずだった。だが走者にタッチをかいくぐられた(記録は野選)。三塁走者が生還して、サヨナラ負けを喫した。

あと少しで逃した東京ドーム切符。「本塁、一塁の併殺を取るべきだった。自分のミスで負けた」。その後も何度もあの場面は頭をよぎった。本大会出場がかなわないまま18年にコーチ兼マネージャーへ。指導する立場となり、「選手の引き出しが一つでも増えるように気づいたことは伝えるようにした」。

悲願の日は20年に訪れた。チーム16年ぶりの本大会出場をかなえた。「あの時の『申し訳ない』という気持ちがずっとあったので、社員の方々が喜んでいるのを見て、本当にうれしかった」。チームは21年も本大会出場を遂げた。昨年10月にコーチを退くまでチームを支え続けた。

歩み始めた人生第2章での挑戦。「社会人野球は会社を背負って、社員の思いを背負って戦うのが魅力。アマチュア最高峰であり、もっと知名度を上げていきたい。それが私の仕事」。ユニホームでもスーツ姿でも懸命に歩む姿に変わりはない。【毎日新聞社野球委員会・藤野智成】